『風林火山』第2回「さらば故郷」

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第2回目で過去にさかのぼり、勘助の出生地は駿河富士郡山本村(静岡県富士宮市)であることが明らかになりました。まあ、山本という地名が残っているぶん、駿河説のほうがドラマにからみやすいですからね。ここで少年勘助(幼名源助)登場。すでに隻眼で片足が不自由になっています。勘助は疱瘡にかかる前は利発で美男だったと伝えられ、隻眼になる前に大林家に養子に入ったともいいます。このほうが勘助の不幸値をUPさせるのに効果的だったと思いますが。また隻眼になった原因として『名将言行録』ではイノシシに不覚をとったと記されています。ちょうど亥年なので、こちらの演出のほうがよかったようにも思えますが、ロケをするのも大変か? 野生のイノシシはかなり危険ですので。
さて、前回も書きましたが、勘助が牛窪(牛久保)の養家・大林家に戻ってくると、すでに実子勘兵衛が生まれており、もう元服して初陣までしています。しかも晩年に生まれた子なので、可愛がりすぎたのか軟弱な設定。しかも勘助が苦労してとった兜首(赤部下野守)は、実子勘兵衛の手柄に奪われる始末。哀れ勘助、せっかく気味の悪い生首を甲斐から三河まで運んだというのに……。
おまけに駿河に戻ってきたら、兄貞久は武田と内通している福島越前守に仕え、その内情を知る勘助は兄に襲撃され、「駿河を去れ」といわれます。ちょうどそのとき、武田家では勝千代(信玄)と次郎(信繁)が剣の試合をし、父信虎が次郎を寵愛しているのに、気づいた信玄はわざと負けてしまいます。このあたりは信玄と勘助、互いに不幸な者同士がいずれ共鳴する設定なのでしょうか。元服前の信玄が、信虎の名馬鬼鹿毛を所望し、信虎の怒りを買ったというのは『甲陽軍鑑』の話ですが、元々信玄びいきに書かれた書物ですので、信虎が信玄をどこまで疎んじていたかは疑問です。天文5年(1536)、信玄が元服するときも、室町幕府12代将軍足利義晴の「晴」の字をもらい、「晴信」と称していますし、正室に京都の公家(三条夫人)を迎えていますので、嫡子として扱われているのは事実ですから。
嗚呼、哀れ勘助、養家と実家から追われ、行き着く先は思い人ミツの葛笠村しかありません。でも、まだ頼れる場所があってよかったね勘助。この不幸設定、個人的には好きなのですが、あまり重いと他の視聴者がついて来れるかどうか。あの最悪だった『MUSASHI』のようにならないことを願うのみです。
今回の歴史紀行は静岡県富士宮市が紹介され、僕が昨年正月に訪れた山本勘助誕生地や、代信寺の勘助両親の木像を取り上げていました。それにしても勘助もうひとつの出生地の愛知県豊橋市や、勘助が養子時代を過ごした牛久保の愛知県豊川市は紹介されずに終わってしまうのでしょうか。勘助がお守りにしている摩利支天像は、愛知県豊川市の長谷寺に安置されており(現物は親指ほどの大きさしかありません)、当寺の念宗和尚とはずっと親交があった関係で勘助の墓もあるのですが。
このまま勘助の育った三河牛窪(愛知県豊川市)が史跡紀行から埋もれてしまうのも可哀想なので、僕の写真を掲げておきます。
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JR飯田線牛久保駅下車。
牛久保城跡(写真左)駅から徒歩2分。長谷寺・山本勘助の墓(写真中央)駅から徒歩8分。
他に今川義元の墓がある大聖寺も近い。あと豊川といえば豊川稲荷(写真右・豊川駅から徒歩5分)です。稲荷寿司もおいしいよ! 詳しくは管理人制作の『風林火山をゆく』(英知出版)を読んでね。
投稿者:管理人
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