「向う両国」門前仲町の魅力4

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●百万歩の男「伊能忠敬」
 我が国の地図史は伊能忠敬(1745~1818)抜きには語れない。延享2年(1745)、上総国九十九里浜のほぼ中央、小関村の名主の家で誕生した。名を「三次郎」といい、幼少より読み書き、算盤などの基礎教育を受け書物を好んだ。17歳で佐原の酒造元伊能家へ入婿、商才を発揮して財を成した。当時、地球が円いことは判っていたが、大きさ、距離は判っていなかったので、地球を測ることを考えていたという。49歳で息子に家督を譲って江戸に出て、天文学者高橋至時(よしとき)の門下となり測量術の習得に励んだのである。
●江戸黒江町の隠宅
 伊能忠敬は江戸の住まいを黒江町、現在の門前仲町一丁目に構えた。19歳も年下の高橋至時の弟子となり、暦学、天文学を学ぶ傍ら、門前仲町の隠宅を中心に深川、浅草辺りまで歩測して地図を作成したという。伊能は訓練の結果一町を158歩で歩いた。一町は60間、1間は6尺、1尺は30.30cmとすれば、歩測の一歩は69.03cmとされる。寛政12年(1800)4月19日、幕府の命を受け全国測量に出発する。早朝に富岡八幡宮に参拝してから蝦夷地に旅立ったといわれる。伊能は17年の歳月をかけ全国を測量した。この時、日頃訓練した歩測に加え、間縄と天体観測を駆使して測量していった。この間10回の旅立ちであったが、その都度富岡八幡宮に参拝し無事を祈ったのである。
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●伊能忠敬の銅像
 平成13年1月20日、富岡八幡宮参道入口大鳥居前に銅像が建てられた。大きな黒御影石に刻まれた日本地図を背景に、杖先方位盤を手に測量へと旅立つ姿である。銅像の隣りには、国土地理院による新地球座標系の国家基準点(三等三角点)が設置され、まさに近代日本地図の祖、伊能忠敬に相応しいものと言えよう。多くの参詣者、観光客が名物深川めし(あさりのせいろむし)、甘酒屋を訪れるが、この銅像も必ず目に触れ、後世に永く語り継がれていくことであろう。                                      
●むすび
 隅田川への架橋は順次行われ、近年はレインボ-ブリッジも出現した。かつて永代島から深川へ深川へと埋め立てられ拡大されていった「向う両国」であるが、今や超近代的な都市に変貌しつつある。平成23年度(2011)には業平橋、押上地区に、デジタル放送用アンテナを付け、450mの高さに展望台を備えた、約610mの新タワ-が出現する。「向う両国」、下町などと言われ見下されていたようなことは、武蔵国側にお返ししたい気持であろう。忘れてならないのは、あくまでも埋め立て地である。地球温暖化による東京湾海面上昇は何時災害をもたらすか判らない。木場の州﨑神社境内にある「波除碑・津波警告碑」を決して忘れてはならないと思う。
おしまい
投稿者:菊地正浩
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