『篤姫』第28回「ふたつの遺言」

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 前回は平均視聴率26.0%とまたまた記録を更新した『篤姫』。今回が最大の山場なだけに記録はさらに伸びるのでしょう。
 将軍継嗣が慶福に決まり、井伊大老は強権を発動して勅許を得ずに日米修好通商条約を締結。ここで「恐れ入り奉ります」を連発しておりました。桐野先生の『膏肓記』にもありますが、これは史実だったようで、このシーンをドラマに用いたことを感心しています。反面、精力的に動いていた幾島は気賀が抜けてしまったようですが。
 家定の死去は安政5年(1858)7月6日、その10日後に養父斉彬が死去というダブルパンチの篤姫。夫と養父を一度に失うなんて、小公女セーラ並みの不幸ですね。しかも上様の薨御は1カ月後であったので、篤姫にとっては養父の死のあと、斉彬の遺言を読んで涙したあとに家定の死を知るわけです。「上様のところへ連れてゆけ」という篤姫。しかし、1カ月も上様の亡骸を保存する方法が当時からあったのでしょうか。それとも先に荼毘にふされたのでしょうか。そのへんが気になります。
 薩摩で斉彬が死去する際に、弟忠教(のちの久光)を呼び寄せ、後継を養子の又次郎(のちの茂久)にし、嗣子として六男の哲丸にするよう遺言します。斉彬に実子が生まれてういたとはいえ、まだ2歳の哲丸を藩主にするわけにはいかなかったのでしょう。しかし、その哲丸も翌年には他界してしまいます。斉彬の男子は6人いましたが、すべて幼くして亡くなっているところをみると、お由羅による呪詛というより、毒殺の疑惑も消えないのでしょう。
 史跡紀行では鹿児島市の天保山砲台跡や島津斉彬陣屋跡、福昌寺跡の斉彬墓などを紹介していました。ここは昨年10月10日にレンタサイクルで回ったところで、今となっては懐かしいところです。桐野先生のブログにもあるように周辺には龍馬新婚旅行の碑もあって、再来年の大河のために再訪しなくてはいけなくなるところです。今回は天保山砲台跡の写真と鹿児島中央駅のスタンプをUPします。
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投稿者:管理人
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